2018年2月9日

『 新しい年を「暮らしの文化力」の始まりに 』

2018.1.29発行 田中優無料メルマガより

■「文化」とは何だろう?

 「文化」という言葉は、なんだか「隠し芸」のようではないか。「文化祭」のようなイメージのせいか、私たちは本当の「文化」を知らないままなのかもしれない。
文化は生活の外にあるものではなく、生活の周囲にあるものだと思う。「アートだ、芸術だ」と外部にあるものを堪能するのもいいのだが、もっと身近な生活の中にも大切なものがある。それが「暮らしの文化力」だと思う。

 何をどう食べるのか、取り巻く環境をどう利用して暮らすのか。そうした当たり前の暮らしを「生活文化」と考えると、予想もしなかった重要性に気づく。

 「文化」とは余所行きの衣装だけでなく、機能性、必要性に裏打ちされた普段着も含むものだ。もし滅多に着ない余所行きなら、日常には文化がなくなってしまう。
普段の生活自体の文化性を持ちたい。こんな話を聞いてどう思うだろうか。


■ブラジルの伝統食「フェジョアーダ」の由来

 ブラジルの伝統食とされる「フェジョアーダ」という料理の話だ。「一般的にはアフリカから連れてこられた奴隷たちがブラジルで考案した料理」とされ、農場主らの食べる豚の上質な肉を取った残りの内臓などの部分に豆などを加えて煮込んだものだ。

 それがどうしてブラジルの伝統食となったかというと、彼らは通常、家庭内で料理をしない。料理は雇った家政婦たちが料理をする。家には台所がなく、家の外に建てた小屋に住む家政婦たちが調理をする。その家で育つ子どもたちは、お腹をすかして帰ると「お腹空いた~、なんか食べたい」と、真っ先に家政婦小屋に行く。


 差別はあるが、人間に対する愛情は溢れている彼らの社会では、「これならあるけど、食べる?」とフェジョアーダを出す。それは暑熱のなかで労働に就く奴隷の塩分を補う食事であり、一般的には塩辛い。それがさんざん外遊びしてきた子どもたちにとってはちょうどいい。ばりばり食べて腹を満たす。

 その「食」の記憶が「フェジョアーダ」をブラジルの伝統料理にしたのだろう。
本来なら「ご主人」たちの食卓には並ばない「くず肉と余り野菜」の料理が。日本の「ホルモン」と同じだ。「放るもん」だった内臓肉から作った焼き肉が「ホルモン」になったという説がある。虐げられていた人たちの文化が、高慢で上品ぶった文化に勝つこともあるのだ。

 ぼくは暮らしに根ざしたものを文化と呼びたい。流行りものを「高尚な文化」であるかのように扱う権威主義者もいる。それはかつての文化のミイラではないか。「河原乞食」と呼ばれた人たちの作った文化のミイラを、ありがたがっているように見えるのだ。


 ぼくが文化と呼びたいのは「余所行き」でない普段着の方だ。「高尚」でなくていい。必要性と機能性が備わった、いわば猥雑なものだ。「作務衣」や「つなぎ」、毎日食べる「弁当」や三食の食事、そこにありがたさなんてない。でも肉体を酷使する奴隷たちが塩辛いものを必要としたみたいに、生きざまと直結したものだ。


 時間のないサラリーマンに低価格ですぐに食べられるファーストフードやハンバーガーは、今の必要性と機能性を備えている。暮らしが変わらなければそのまま定着するだろう。

 しかしその中で商業主義によって失われつつあるものもある。特に気になるのが「調理」という文化だ。まともな味覚をもっていたら食べられないようなもの、甘いだけのお菓子や果物、刺激だけしかない食品、給食で出される囚人食みたいな食器、こんな味気ないものに慣らされたら、食はとても貧しいものになってしまう。餌ならそれでもいいが、人の健康や体を維持することのできないものになってしまったら困ってしまう。


■「暮らしの文化力」 


 同じ貧しい家庭でも、大きな違いが見えてくる。一方はより多くの金額を支払いながら不健康で、他方は少ない金額で健全に暮らしている。外食より家で作って食べた方が安上がりになることが多いし、その栄養価に至っては大違いだ。アメリカでは貧しい人たちの方が肥満体だ。カロリーの高い炭水化物と油脂を食べ、しかも腹が減りすぎてから短時間に大量に食べるので肥満になりやすい。そして栄養価や微量栄養素の少ない食事をしているからそのせいで病気になりやすく、免疫力や復元力に乏しい。

 他方、安い食材しか買えず、貧しいはずなのに頑強な体を維持する人たちもいる。
屑野菜や納豆を買い、煮汁も利用して食べている。この違いが暮らしの「文化力」の違いだ。

 第七の栄養素と呼ばれる「フィトケミカル(ファイトケミカルとも言う)」が免疫力や復元力を支えているが、その植物の化学物質は「種、皮、成長点」に多く含まれ、しかも硬い殻に覆われているて、ほんの数分湯がかないと染み出て来ない。
「フィトケミカル」は、野菜の持つ色や苦みに含まれる抗酸化能力を持った化学物質のことだ。

 たとえばカレーを考えてみよう。カレーを作るときのニンジンも玉ねぎも、皮を剥かれて成長点を取られ、栄養になるフィトケミカルを捨ててから作られる。つまり栄養的にはカスばかりを食べることになる。でも知っていれば「皮や成長点、種」だけ別にして出汁網に入れ、カレーの出汁汁に使うだろう。それだけで深みにある味になり、大切な栄養やフィトケミカルを摂ることができるのだ。





 この違いが大きい。一方はカスだけしか入ってない深みのないカレーを食べ、他方は栄養価の高い抗酸化物質たっぷりで深みのある味のカレーを食べる。この味の違いに気づければ、栄養価の低いカレーを食べる気にはならなくなる。この味の違いがわかる能力こそ「文化力」だ。本物の調理に触れていたかどうかの違いによって培われ、経済的な貧富の差ではないのだ。


 そうした「暮らしの文化力」の違いはたくさんの局面に現れる。百年持つ家具や家と、耐久性のない流行のものとどちらを選ぶかが、経済的にも健康的にも大きな差をもたらしていく。





 だからこそ思う。大切なのは「暮らしの文化力」の違いなのだ。目には見えないこの力を鍛えたい。それこそが未来の暮らしを明るくするだろう。